「毛利は、関ヶ原の戦いのあと、領地は、防長2国になった」というのは、子供のころからよく聞いていました そのことばのとおり、防長2国、つまり山口県全域を支配していたと、つい最近まで思っていました
それが、勘違いだったというのが、「防長風土注進案」を調べていて、はじめて分かったのでした 郷土の偉人、村田清風先生は、「毛利藩の天保の改革」を行いましたが、藩の実態を、「防長風土注進案」という本にまとめました
「防長」というタイトルなので、山口県全域かと思っていましたが、岩国、徳山、清末、豊浦(長府)は、入っていません 毛利は、山口県全域を支配していなかったのでした 山陽側の中心街道筋は、半分です それで、毛利藩のことを「萩藩」というのかと、気がついたのでした 自分が、萩藩の中の、「前大津」の住人だったから、こういう勘違いをしたのでしょう 岩国や徳山に住んでいたら、自分たち地域の殿様は、萩の毛利様ではなかったと分かっていたでしょう
ところで、毛利藩(萩藩)は、山口県のどれくらいを支配していたのでしょう 貞享3年(1686)の検地の石高で計算してみました
毛利藩(萩藩)の石高は、山口県の8割弱になるようです 領地が、中国地方から防長2国、なおその8割になって、藩も苦しいし、農民も苦しかったことが想像できます
ところで、「毛利藩は36万石」と、検地石高より少なくなったのには、いきさつがあるようです 先日の、古文書講座で資料をいただいたので、また、紹介します