前、中村熊野権現社の昔話を書きました 小祠が残っていたことは、毛利藩寺社由来書を参考にしました 神社が花尾山から足河内山に移り、焼け残った小祠を、山下に下ろしたということでした 花尾山には、今、2つの祠、権現があります
花尾山から足河内山までの山を、図にしてみました
花尾山渋木村の権現社が1260年、花尾山東にある嘉万、城山の鷲頭城が1280年、熊野権現地中の大釜が1288年、文永の役が1274年、弘安の役が1281年です このころに、ことが始まったようです
山の写真で、小祠の移動をみてみます
花尾山から足河内山まで、稜線で繋がっています 足河内山は、200mばかり低いところで、仙崎湾に近くなります
地下上申の真木側と三隅側の記述で、場所を確認してみました
足河内山の頂上あたりが、丁度、方向転換の場所になり、「花の尾堀切」とみてよいようです 山の写真で確認してみます
足河内山の頂上は、少し平らになっているようです 下から見ると、2こぶラクダのように見えます 堀切とは、へこんだ部分の意味があり、山城でよく造られるようです 雑木林のこういう場所は、迷いやすいので、要注意です 特に、下るときがこわいです
足河内山から、すその中村に、小祠が運ばれたようです その昔、兎渡谷(とどろく)でも、権現社が下ろされたことがありました
ところで、こま犬や鏡、阿弥陀様が、地中に埋まっていたのは、この社の主人が、埋めて逃げたのではないかといわれています 三隅町史には、次のようなことが書いてあります
元寇を迎え撃つために、ここに住んだ城主が、必要がなくなったので、埋めて、地元に帰った
足河内山に山城をかまえていた城主が、石見国、高津道性が大軍でせめてきたとき、全部かたづけて、武士を捨てた(1333年) 実際に、この東、麓の城主は、城を解いて住職になったようです
この、中村熊野権現社の埋蔵物は、どんないきさつがあったのでしょうか
昔のことを調べていくと、分かることより、分からなくなることが増えていくような気がしています