ふすまに貼ってあった江戸時代の日記を整理しています
大津郡三隅、生島村久原村は、村上作兵衛(寄組、村上水軍一門)の領地・知行です
小名は、明治20年の地図をもとにうっています 生島村久原村には、それぞれ御米蔵がありました(だいたい村ごとに米蔵があった) 庄屋もそれぞれにいて、代表を庄屋元としています
以前、お米蔵の中に、流鏑馬の道具があったことを紹介しました 今日は、その右に書いてある「桝」と「年貢」のことです
米蔵の中に、「桝」が2つありました 1斗マスと7合5勺マスと思います
この7合5勺という、はんぱなマスの、意味が分かりませんでしたが、ネット「長府雑記帳」を見て、予想できました
長州藩は、普通より大きい1斗桝を、年貢の収納に使っていたようです 百姓が持ってきた米を、この桝に入れ、検分し、その後、7合5勺分を「延米」として抜き取りました このことをはじめて知りましたが、なんだか農民が気の毒になりました
次に、年貢のことです 代官所から届いたものと思われる「春定」が見つかりました
久原村生島村の年貢と役員手当のことが書かれています
やま
庄屋は田方から、畔頭、山廻は畠方から出ています 庄屋は2人いるのに、蔵屋敷が2升で、なんとなく不自然です 地下上申で、隣村津雲村とあわせて確認してみました
やはり、不自然な役員手当です 村上さんは200石、益田さん(家老益田家分家)は1000石 その違いからくるのでしょうか