ふすまに貼ってあった江戸時代の日記を整理しています
今日は、お米蔵の7合5勺桝のことです 忠蔵さんは、文政3年、お米蔵の管理を引き継ぎました
お米蔵の7合5勺桝で、年貢・土貢をはかった記録が、見つかりました 生島村農民23人から、1軒あたり米7合5勺、集めています 1軒あたりなので、地下のための年貢かなと思いました
記録をみると、この桝が大きくなったようです 不作で納められず、蔵米を借りたようにもなっています
桝が大きくなったのは、生島村だけだったのでしょうか 農民にとって一大事です 文政12年は、物産会所ができて、米以外も統制されました これが、長州藩天保大一揆の原因といわれています 藩の赤字解消のために、農民が犠牲にされたようです
ちなみに、明治20年の地図によると、生島村の住人は、22軒で、江戸時代とほぼ同じです