家の襖の張紙にあった日記などを紹介します その2
今回は、村の年度末の集会のことです
村の領主(知行、村上作兵衛)、有吉様、山代権(訂正=猪)兵衛、懸村政右衛門、村の役人などが参加する集会のことのようです 「御屋敷」=「知行、村上作兵衛」の御屋敷修理代を、村が支援しているようです
村を取り仕切る重役が、村を訪れるのは、「年始」もあったようです
この日記があったおかげで、忠蔵さんが「畔頭(くろがしら)」をしていたことが、はじめて分かりました 庄屋・清蔵さんは、近所の人だろうと思って、いま調べています 庄屋をしたために衰えたという話もあります
知行、村上作兵衛のことは、行程記、地下上申、風土注進案などにあります
行程記作成中の時代の村上作兵衛が病死したことも、記録に残っているようです(山田稔著)
「有吉様」については、萩藩の武士で、前大津代官所か、頼母子の監査か、年貢のことか、藩の行政に関わる仕事をしていた人ではないかと思います
(訂正2.11.11 不進:進まず→不宜:宜しからず、うべなわず)
もうじき、せごどんの場面で出るであろう「禁門の変」に関わった人も、「有吉」という人ですが、その家筋と関係あるのか、分かりません
前大津の代官所は、長門市役所の場所にありました(江戸中期に、三隅から移転)
この代官所に勤めたいた人も、村の集会に来たのかもしれません 村で食事を出して、有吉様は、忠蔵さんの家に泊り、朝ご飯を食べているようです
この食事について、何がいくらかかったか、次回から紹介していきます
6月27日追記訂正
忠蔵さんの字をみると、生島の集会は、年のおわりではなく、半ばごとの区切りのようです ということは、日記を調べていくと、10月ごろの集会の内容があるかもしれません