朝鮮通信使のことが、文化遺産として認められました 絵を見ると、華やかな様子がうかがえます
でも、通信使にかかわった藩では、負担も大きかったという記述があったので、10回目来朝、寛延元年のころの資料を探してみました
通浦(長門市)庄屋戸田家の資料です これは、朝鮮通信使来朝のことではないかと思います(まちがっているかも) 藩内に、米銀の負担があり、戸田さんが、米40石差し出したようです
寛延のころは、もう、享保大飢饉の影響はおさまっていたのでしょうか
寛延元年、通浦は不漁困窮の中でも、銀を1貫500目出しています 冬はさらに苦しく、餓死者まで出ているようです ・だいたい・銀100目=米1石
そして、負担、頼母子は、最終的には、庄屋が背負うことになったのではないかと思います
庄屋、畦頭をしていた水野家の内容です
長男が出せないので、次男が負担しています 大飢饉のころは、役から外れていますが、次の庄屋や畔頭が負担したのでしょう 庄屋や畔頭が出せないときは、大庄屋が庄屋、畦頭に貸し出しているようです
華やかな朝鮮通信使の絵の後ろには、藩の苦しい姿があったようです