チューメイくんの田舎ぐらし

定年退職後田舎ぐらしを始めました

前大津宰判と県舎と県令

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天地返しで植えたジャガイモ畑は粘土性の土が固まって、岩状態になりました

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草取りをしながら、かでました

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寛保2年1742年行程記に大津郡三隅村豊原たで原(現、蓼原)に勘場とあります 前大津宰判(代官所)です 左に「町はつきより四ツ辻まで二十八間」とあります 右の青い屋根の建物は御米蔵で、ここから船積みされていたと思われます 三隅は川が度々氾濫し、船を入れるため砂利さらいが大変だったようです 洪水の度に下村の人たちは改修にかかわり、負債で倒れる庄屋もいました やがて勘場は長門に移りました

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ここが三隅豊原の前大津宰判跡です

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こちらが長門市の前大津宰判跡です 長門市役所裏駐車場にあります

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市役所後ろには古城の山、亀山があります 大内氏に滅ぼされた鷲頭家が構えたようです

天保13年1842年防長風土注進案深川邑の頁に、前大津宰判が、三隅豊原から長門正明市に移ったわけが書いてありました

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代官所長門に移ってとてもよかったようです 県舎、県、県令ということばがあります 維新の100年も前に、毛利藩はこのことばを使っていたようです 四が改変されないように肆を使っていることも分かりました