昨日朝は霜でした
オオイヌノフグリがあちこちで咲いています 暖かくなりました
たまねぎの草取りをしました
ここは掛内という小名です
明治21年の地図にも掛内となっています
江戸時代の台帳の小名です 尽内と読みましたが、こんな地名はなく悩んでいました 昨日、その悩みが解決しました
須佐郷研究会東京部会研究資料を読んでいると、「異船見懸候」という文があり「懸」の古文字が目にとまりました
右が「懸」です 小名に「懸内」と「掛内」の両方が使われていて、明治になって「掛内」に統一されたのでしょう 須佐郷研究会の方、原文と解説文両方載せていただきありがとうございました
次の2つはまだ悩んでいます
これは、御蔵米20石頼母子を、知行村上作兵衛様に、享保5年から現米3石宛9年届けたあとに、知行からかけられた言葉です
これは、養っていた子を村内の家に養子にやるとき、田と他のものをつけたときにねぎって親分になって世話したという文にある言葉です
まだまだ古文書の原文に触れなくてはと思っています