植物写真集が完結し、今古文書の読みに夢中になっています
これは当家盛衰録の一部です 「弐間半之梁に桁タ行五間之家を建」と家の大きさが書いてあります 梁と桁を表記するのが一般的です 防長風土注進案にも蔵やお堂の大きさが梁と桁で表記してあります ところが相続の目録には屋敷が「四半軒」となっています
一番下 明和8年(1771) 屋敷四半軒 五分弐厘五毛(?)
寛政8年(1796) 屋敷四半軒 五分弐厘五毛(?) 明和8年のものと同じです
この表記の意味が分からないのでネット検索しました 山口市大歳自治振興会の資料が見つかりました 百姓の屋敷にも年貢「門役銀(かどやくぎん)」がかけられ、十石以上を「本軒」とし「二匁一歩」を徴収したようです 石高により「七歩五朱軒」「半軒」「四半軒」とし「四半軒」は「本軒」の4分の1としたようです
つまり当家は「四半軒」で2匁1歩の4分の1の年貢がかけられていたということです
寛政8年屋敷の畑の年貢です 慶長・三井検地によって屋敷、屋敷の畑、桑、茶、椿まで年貢を取るようになったというのです 明和8年の目録に「桑米壱升」というのがあります 2州に縮小された毛利藩は必死だったのでしょう そして農民もまた一層苦しくなったと思います
以前「春定名寄帳」を「しゅんていなよせちょう」としましたが大歳資料では「はるさだめなよせちょう」としてあります
江戸時代毛利藩の百姓事情がまた一つ分かりました 大歳自治振興会様ありがとうございます